批評家?ライターの谷頭和希による、「スタバらしさ」を通して消費文化を考える連載、いよいよ第5回目となりました。「日本とアメリカの分裂」に関係する「かっこいい」という感覚について、今度は同じくアメリカにルーツを持つMacを取り上げます。(編集室H)
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さて、ここまでは日本におけるスタバの展開を確認しながら、スタバに見られる分裂が、日本においてどのような形で受容され、どのように根付いたのかを見ていきました。
今回からはさらに範囲を広げてスタバ全体の話、つまり海外にまで目を広げてスタバに見られる分裂を見ていきましょう。
そのときの糸口としたいのが、スティーブ?ジョブズらが立ち上げ、現在ではGAFAの一角をなすApple社のことです。
スタバとMac
なぜ、Apple社か。それは、Appleの製品であるMacとスタバが結びつけて語られやすいからです。
「スタバには、Macユーザーがたくさんいる」
このような言説はネット上を中心としてまことしやかに語られてきました。今でも、ネットで「スタバ Mac」などと検索してみると、多くの記事がヒットします。例えば、それは以下のような記事です。
「スタバでMacBook広げて何してる? ネットで疑問、店内観察して分かった事実(『J-CASTニュース』,2021年10月19日)」
「スタバでMacを広げる人の残念すぎる仕事効率(『PRESIDENT』2020年1月31日号)」
このようにスタバとMacの関係は強いものとして語られてきたわけですが、それはどうしてなのか。
そもそも、私がこの通説に対して問うてみたいのは、「本当にスタバでMacを開く人は多いのか」という疑問です。例えば先ほどあげた「スタバでMacBook広げて何してる? ネットで疑問、店内観察して分かった事実」では、実際にスタバ3店舗を回ってMacを使っている人の調査を行っていますが、1店舗目ではPC類使用者11人のうち、Mac使用者は1人、2店舗目では店内でMac使用者は1人のみ、3店舗目ではPC類使用者18人のうちMac使用者は5人にとどまっています。また、私がスタバの店舗に訪れたときも特段Macを使っている人が多いとは思いませんでした。
つまり、現実としては、スタバでMacを開く人は少ないのではないか。少なくとも、世間で語られるほど、その結びつきは強くないのではないか。
スタバとMacは「イメージ」で結びついている?
つまり、こう言えると思います。スタバとMacの結びつきの強さは、イメージ上の結びつきなのではないか、と。つまり、「なぜ、スタバとMacは強い結びつきで語られるのか」という問いは、スタバとMacのイメージにかかわる問題だということです。
ここまで私たちはスタバのイメージについて考えていきました。それは一種の「かっこよさ」であり、そしてそれはスタバが持つ「分裂」に起因しているのではないか。そのようなスタバのイメージがこの結びつきにおいて重要なのだと思います。スタバとMacの関係性においては、この「イメージ」の領域が大きなテーマとなっているのです。
日本におけるスタバとMac
また、興味深いのはこうしたスタバとMacの結び付きの強さは日本特有の事情だということです。作家の古谷経衡は、「スタバでMacを広げる人の残念すぎる仕事効率」の中で、こうした姿は日本だけでみられると述べています。そう考えると、これまで見てきたような日本におけるスタバ受容の話とこの話題はリンクしているようにも感じます。
日本においてスタバとは、「かっこいい」ものとして受容され、その「かっこよさ」とはアメリカ的なるものの受容に伴うアンヴィヴァレントな感情に起因しているのでした。なるほど、確かにMacもまたアメリカで生まれたものであり、戦後日本が受容したアメリカ的なるものの一つです。
そうして考えると、日本におけるスタバとAppleには類似点が多いことに気付かされます。Apple Storeが日本で誕生したのは2003年のこと。1号店の場所は銀座でした。そう、スタバと同じ立地に一号店を誕生させたのです。
興味深いのは、なぜAppleは秋葉原に1号店を作らなかったのか、ということです。電気街として知られる秋葉原は、2003年の段階ですでに多くの家電製品の店が立ち並んでいました。Appleというアメリカ初のPCの上陸を当時のギークたちに知らせるには、秋葉原の方がよかったのではないか。しかし、そうはならなかったわけです。
この立地選択は、Appleが、自社製品をただの「パソコン」としてだけではなく、ひとつのブランドのように扱っていることを表しているでしょう。銀座は昔から一流のブランドが集まる街でした。そんな銀座に出店することで、Macがパソコンという機能を果たすだけではない、ひとつのブランドであることを示すのです。
そういえば、ここまでの連載で触れてきたように、スタバもまた、その店舗を顧客にコーヒーを提供するだけではない場所だと考えてきました。コーヒーを含めた体験そのものを売ることが重要でした。そしてその独特の体験は、スタバでの経験をひとつの「ブランド」としてわたしたちに受容させるでしょう。
このような「ブランド」として製品を扱う姿にもその類似性が見てとれます。
スタバもMacも「分裂」している
ブランドとは、他者との違いを生み出すために身につけられるものです。そのような差異化を図るものとして、スタバとMacは非常に類似性がある。とても簡単な言葉でまとめれば、「スタバ(Mac)を利用する私は、あなたたちとは違うのだ」という意思表示をするのに役立つということです。そのようなニッチ性をどちらとも持っている。
しかし、スタバにせよMacにせよ、それは同時に多くの人が同じものを使っています。Macは徹底的に規格化され、世界のどこでも同じようなMacが売っていますし、スタバのメニューは基本的に、世界中どこでも同じものです。つまり、スタバもMacも「おなじ」だということです。そしてそれは現在社会に広く受け入れられ、ある種の「大衆性」も獲得しているでしょう。
スタバにせよ、Macにせよ、「ちがうけれども、おなじ」という性質を持っているわけです。それは、これまでの連載で使ってきた言葉に従うならば「分裂」という言葉がふさわしいのではないか。Macもスタバも同時に分裂している。だからこそ、そこに親和性があるのではないか。
このように、スタバとMacを考えていくと、そこにはさまざまな共通点があることがわかるのです。そのような共通点こそが、私たちのイメージの中で「スタバ」と「Mac」を結びつけているのではないか。
アメリカの歴史の中でスタバとMacを位置付ける
ここまでの話をまとめると、大衆性とニッチ性が結びついているのが、Macとスタバの共通点だということになるでしょう。実は、そのような結びつきは、両者の歴史的なルーツをみていくことでさらに明らかになります。
例えばApple社。その創業者であるスティーブ?ジョブズの有名な言葉に「Stay Hungry,Stay Foolish」という言葉があります。これは彼がスタンフォード大学卒業式にゲストスピーカーとして招かれた時のスピーチで使われた言葉ですが、実はその元ネタは「ホールアースカタログ」という1960年代のヒッピー文化などに代表される反体制的なユースカルチャーの大きな理論的?精神的支柱になった本で使われた言葉でした。ジョブズの伝記によれば、彼は1960年代、こうしたヒッピーたちの活動に大きく影響を受けていました。かくいうパーソナルコンピューターもまた、こうした反体制運動的な思想の中で構想されたものでした。パーソナルコンピューターを用いれば人は世界中どこでもつながることができます。いわば、全球的にコミュニケーションを拡張することができるのです。それを用いることで、既存の権力体制とは異なる新しい社会を築くことができるのではないか。このような思想のもとで、コンピューターが捉えられている時期が、たしかにありました。こうした思想が打倒しようとしたのはすでにアメリカを覆っていた国家のシステムであり、そしてそれを支える資本主義でした。それらに縛られない社会を彼らは夢想していたのです。
しかし、Appleの理念はそのようなものであるにせよ、現在同社は、GAFAの一翼として世界の資本主義のシステムに欠かせないものになっています。ある意味では1960年代の反体制なヒッピー文化のムーブメントを受け継ぎながら、同時にきわめて資本主義の世界に適合しているものがこのAppleでもあるわけです。
ニッチであると同時に大衆的であるという分裂、その一つの文脈が、1960年代のヒッピー文化に見られるのです。
では、スタバはどうなのか?
興味深いのはスタバが誕生した1971年とは、ちょうど1960年代の反体制カルチャーが終わりを迎えようとしていたタイミングです。次からはスタバがアメリカに誕生したこの時期を考えながら、スタバについて考えていきましょう。
【文:谷頭和希/ライター?批評家】
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