
左:菅さつきさん、中央:豊嶋慧さん、右:吉田隼さん
Image by: FASHIONSNAP(Koji Hirano)
パリのトップメゾンには、“花形”とされるクリエイティブディレクターの影に、そのクリエイションを支える裏方デザイナー、モデリスト、パタンナーといったさまざまな領域のプロフェッショナルたちの存在がある。その中には日本人の姿も少なくないが、華やかな世界の裏側でキャリアを積み上げ続ける彼らの実情は意外と知られていない。そこで、さまざまなラグジュアリーブランドでクリエイティブディレクターを支えてきたデザイナーの豊嶋慧さん、パリの大手メゾンのコレクション製作を担ってきたモデリストの吉田隼さん、同じくモデリストで、多国籍なチームをまとめるマネジメント職も経験した菅さつきさんによる座談会を実施。海外で働くことを目指すファッション学生や若手クリエイターに向けて、そのリアルな経験や苦悩、キャリアの軌跡を前後編に分けて存分に語ってもらった。
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前編では、3人がパリで働くことを決めた理由と、コネなしの20代がいかにして海外メゾンの扉をこじ開けたのか、その原点に始まり、メゾンのリアルな労働環境や過酷な競争を生き抜ける人物像についてを訊ねた。
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- 登壇者プロフィール -
文化服装学院(学院長賞受賞)を卒業後、日本で5年間アパレル企業に勤務。渡仏後はニナ リッチでデザイナー(Styliste Modéliste)として7年経験を積み、その後ディオール、サンローラン、ランバンなど複数のトップメゾンでオートクチュールやプレタポルテ、VIPのモデリストとしてキャリアを重ねる。現在はサンローランのアトリエで活躍。
近年は、日本の服飾専門学校での特別講義や、ラジオ?ファッション誌への出演を通じて海外でのキャリアや自身の経験を積極的に発信し、後進の育成にも力を注いでいる。
文化服装学院を卒業後、日本でパタンナーとして7年間勤務。27歳でロンドンへ。当時所属していたブランドのパリ移転に伴い、自身もパリへ拠点を移す。小規模なブランドでの経営にも携わり、多様な国籍のメンバーで構成されるチームをまとめるなど、マネジメントでも手腕を発揮した。現在は大手メゾンでモデリストとして活躍。
某ラグジュアリーブランドのメンズデザインチームでシニア?デザインコンサルタントとしてランウェイコレクションを担当。66°Northではクリエイティブディレクターとしてブランド創立100周年プロジェクトを指揮し、これまでダニエル?リー率いるボッテガ?ヴェネタ、ハイダー?アッカーマンをはじめとする主要メゾンでメンズのヘッドデザイナーを歴任。メゾン?マルタン?マルジェラおよびランバンでも経験を重ね、近年はファッションに加えて写真?アートワークにも活動領域を広げている。現在、Paris Photo期間中(11月7日?15日)、パリ?シテ島にて写真展 “. 1 0 .” を開催した。限定出版の同名のZINEはヨーロッパ写真美術館(MEP)に収蔵されている。
目次
「若気の至り」「行かなきゃ分かんないでしょ」それぞれのパリへの道
── まず、皆さんがパリで働くことになった経緯、キャリアの始まりについて教えてください。
吉田隼(以下、吉田):僕は文化服装学院を卒業して日本で5年ほど働いたあと、次のキャリアを考えたときに、「日本じゃなくて、モードの本場を見てみたい」と思ったのがきっかけでした。ファッション業界の中心はやはりパリ。だから単純に、「じゃあパリに行こう」と決めたんです。その“中心”に飛び込めば、自分の感覚が揺さぶられるような、もっと面白いものに出会えるんじゃないか、そう信じていた。
理由を言葉にすれば「モードの本場を見てみたかった」ということになるけれど、振り返ってみると、本当はもっとシンプルに、「見たことのないものを見たい。経験したことのないことを経験したい」そんな純粋な刺激を求める気持ちが、自分を突き動かしていたんだと思います。当時はビザのことなんて何も考えていなくて、若気の至りというか、「知らないからこそ行ってみよう」という勢いだけでしたね。日本での経験はたった5年。でも、「きっと自分ならやれる。絶対になんとかする」と信じていました。??
菅さつき(以下、菅):私は、仕事の都合でパリに移住することになりました。もともとはロンドンのブランドで働いていて、ロンドンに5年間住んでいたんです。そのブランドがパリ?ファッション?ウィークに参加していたので、ショーの時期だけロンドンとパリを行き来する生活でした。最終的にアトリエがパリに移転し、チーム全員でパリに移住することに。正直に言うと自分の意思で来た街ではなかったんです。パリのことを「住む街」だとは思っていなかったので、最初の頃は毎日ロンドンに帰りたくて仕方なかったですね(笑)。

菅さつきさん
── ロンドンとパリでは、そんなに違いましたか?
菅:海を越えただけですぐ隣なのに、国のシステムや国民性が全然違って。同じヨーロッパでもメンタリティが全く違うことに最初は戸惑いました。馴染むのには正直3年くらいかかったかな。パリで働くことには慣れたけど、今でも暮らすならロンドンがいいなと思っています。でも住んでしまえば慣れるもので、要は「自分のベッドがどこにあるか」つまり、生活の基盤がどこにあるか次第なんだなと。
ロンドンに来る以前は、文化服装学院を卒業後、新卒で入社した日本の会社に7年間勤めていました。私も、次のステップを考えた時に、「東京という場所にこだわる必要もないな。それならいっそ国を変えてもいいのかも」と考えた。自分が好きでよく買っていたインポートの服に「Made in England」や「Made in Scotland」のものが多かったという単純な理由からロンドンに行くことを決めました。コネもないし、働き方も知らない、履歴書の出し方も知らなかったけど、「行かなきゃわかんないでしょ」と思っていたので、前もって準備したのは住む場所くらい。27歳の時で、正直「もう遅いかな」とも思っていましたが、今思うと全然遅くなかった。30歳頃からいらっしゃる方もいて、そういう方々を見ていても、全く遅くないなと感じます。
吉田:さつきとは文化(服装学院)で同じクラスだったんだけど、僕もパリに来たのは27歳で、ちょうど同じくらいのタイミングで海外に出たんだよね。僕も当時は「27歳では遅いかな」と思っていたけど、振り返ると結果的によかった。日本でしっかり鍛えられていたから即戦力として動けたし、ある程度力をつけてから外に出るのも一つの正解だと思う。言語はダメだったけど(笑)。
豊嶋慧(以下、豊嶋):僕は武蔵野美術大学卒業後、日本で「メゾン マルタン マルジェラ(Maison Martin Margiela、旧ここのえ株式会社)」のブティックのデコレーションなどのお仕事をしていました。当時の上司が海外留学や勤務の経験者も多く、職場もインターナショナルな雰囲気だったため海外志向はあったと思います。仕事の傍ら、夜中に自分で洋服を作っていたんですが、作品が溜まってきた頃に作品集にまとめて4月のお花見の席で上司に見せたら「海外とか面白いかもよ」と背中を押されて。その1週間後にはワーキングホリデーのビザをとり、8ヶ月間お金を貯めてその年の12月にパリに来ました。8ヶ月じゃ80万円くらいしか貯められなかったけれど(笑)。
吉田:なんでパリに来ようと思ったの?
豊嶋:きっかけは、ファッションの展覧会で見た「ランバン(LANVIN)」のドレスに衝撃を受けたんです。すごくシンプルな、1ヶ所をつまんで縫っただけ、切りっぱなしの部分の裏処理すらしていない本当にそっけないドレスがあって。気になって調べたら、ムッシュ サンローランが自身の後継に推薦したアルベール?エルバス(Alber Elbaz)の作品だった。あとは、自分がその時仕事をしていたマルジェラもパリが拠点だったので、パリを選んだ理由はその2つのブランドがパリにあったから。海外のファッションスクールに通うんじゃなく、いきなりトップの世界に飛び込んで、ハイレベルな現場から学ぶのが早いんじゃないかって考えたんです。履歴書はランバンとマルジェラにしか送りませんでした。
吉田:ランバンでは同期だったよね。どれくらい一緒だったっけ?
豊嶋:6ヶ月くらいだったかな。あの頃のランバンは本当に良かった。
吉田:最高の時期だったよね。「あの頃のランバンにいた」って言うだけで、どこへ行っても一目置かれた。
豊嶋:本当にそう。僕は結構運が良くて、ボッテガ?ヴェネタに居た頃はダニエル?リー(Daniel Lee)のチームだったし、職場を変えたらそのブランドがバズるみたいなことが続いた(笑)。やっぱりどのブランドでも“ピーク”の時に在籍していると言うのはとても大きくて、僕はランバンに入るまではどこに連絡しても返事をもらえなかったけど、ランバンで働いた後はトップブランドからちゃんと返事がくるようになったんですよね。

豊嶋慧さん
「採用担当のメアドを推測」「大家さんが関係者」 泥臭さ × 強運でこじ開けた扉
── 一度成果を出せば道は切り開ける一方で、どうすればその最初のキャリアをスタートできるのかが気になります。コネのない20代で海外へ渡ったみなさんは、どのように1社目に入社したのでしょうか。
吉田:パリに来たばかりの頃は、コネクションもないし、履歴書の送り方すらわからなかった。働きたい気持ちはあるのに、どう動けばいいのか見えなくて、ずっとモヤモヤしていた。 それでも、とにかく周囲の人たちに「メゾンで働きたい」と言い続けていたんだよね。そしたら本当に偶然なんだけど、僕は運が良かった。住んでいた下宿先の大家さんの知人が、たまたまランバンで働いている方で、そこからご縁を繋いでもらうことができたんです。
だから今振り返ると、やっぱり「運」は大きかったと思う。もちろん、自分から行動することはすごく大切。でも、パリまで来ている時点で、行動するのはもう当たり前なんですよね。15年以上ここで働いていると、ビザの問題などを理由に帰国してしまう人もたくさん見てきました。長くここに残ってやっていけてる人たちは、努力はもちろん、人並み以上の技術、強いメンタル、やり抜く力と体力を持ち、そしてどこかで「運」にも恵まれていると思います。
菅:それはすごい! でも本当に、どんな人に会えるか、「縁」と「運」が左右する部分は大きいと思う。私は、ファッションの世界で働くことは、アスリートに通ずる部分があると思うんです。でも私たちは年齢でキャリアが終わるわけではないから、「終身アスリート」みたいなものかも。
豊嶋:僕もコネが全くなかったので、どうやってアプローチすれば良いかもわからず、手紙を書いてみたりもしたけど、当然返事はない。当時はLinkedInのようなツールも普及していなかったから、どうにかしてまず「メールアドレスを知ろう」と。そこで、まずはランバンのカスタマーサービスに「服の調子が悪い」と嘘のメールを送ったんです。すると返信がくるじゃないですか。そのアドレスを見て、ドメインを突き止めたんですよね。
── たとえドメインがわかっても、そう簡単に返事はもらえないのでは?
豊嶋:それから、お店に通って質問したりインターネットで調べたりして、HR(人事)担当者の名前を特定して、その人のアドレス宛に自分の作品集を、迷惑なくらいにとにかく送りまくりました(笑)。当時は言葉もあまり話せなかったので、デザイナー志望だったけど、指示を受けたものを作る仕事なら可能性があるんじゃないかと考えて「パタンナーを募集していると聞いたのですが」と話を作って連絡したら、本当にたまたま募集があって。面接ではパタンナーのスキルがないことはすぐに見抜かれちゃいましたが、作品を気に入ってもらえて、アルベールの右腕の人に作品集を渡してもらえたんです。
その時のランバンはたまたますごく調子が良かったので、セントラル?セント?マーチンズ出身者4人に紛れて僕が5人目として採用されました。たぶん「1人くらい変なやつを入れてみよう」となったんじゃないですかね。ラッキーでした。ただ、言語に自信がなくて言葉で熱意を伝えられない分、面接のプレゼンテーションは徹底的に準備しました。面接官に作品集を手渡し、このページを開いたタイミングで決まったセリフを言う、というように。作品集は2冊作ったんですが、最初に服を一切載せていない、自身の考える服の概念を表した写真集のようなブックを見せて、相手が「服は? 」と訊ねてきたら「今着ているこの服だよ」と明かす。そしてそこから服のデザインをまとめたポートフォリオを見せるといった形で。今でも面接やプレゼンで人の心をどう掴むか、「その場自体をデザインする」意識は大切にしていますね。
菅:「プレゼン力」はデザイナーだけでなくパタンナーにも求められると思う。「ブック」と「作品」と「自分」を大きな一つのパッケージにして表現して、周囲とは違う光るものをアピールしないといけない。それはどこの国でも同じだな。日本の学生はパッケージを作るのが上手な人が多い気がするけど、ヨーロッパの学生の中にはブックを開いた瞬間に惹き込まれる作品を作っている人が稀にいる。服が一着も載っていないブックは一度も見たことがないけど……(笑)。
豊嶋:受かるか落ちるかの2択なら、落ちるにしたって完璧に落ちたい(笑)。マスターを卒業している学生は6年間もの時間を費やし学生同士切磋琢磨してものすごい量の服を作ってきているのだから、簡単には越えられない力があるのは当然。そういう人たちに、夜中に服を作っていただけの自分が普通のブックや服を作っていては勝てないでしょうね。でも大切なのは、とにかく「一流のバッターボックスに立たないと、自分がどれほどのものかなんて分からない」ということ。立ってみて初めて、自分だけの才能に気づくこともあるしね。当然、そこで一流の環境で経験を積むことができる。如何にして自分自身を日々成長が実感できる環境に置けるかが大切なんじゃないかと思います。
デザイナーとパタンナーの働き方はどう違う?
── パリのメゾンで働き始めてから、最も大変だったことはなんですか?
吉田:海外に住んで、働いて、生活していく上で、最初にぶつかった壁は、やっぱり「言語」でした。 単純な文法の知識だけじゃなくて、日本と海外では会話の進め方や、話すときの姿勢、相手との距離感もまったく違う。語学って、できないと同じ土俵にすら立てないんだよね。 そして、語学ができないと判断された瞬間に、重要な仕事から外されてしまう。下手をすると、そのことにさえ自分で気づけないまま、使われて終わることもある。僕自身も、最初の頃は悔しい思いを何度もした。だからこそ、チームの中で話がうまくいっている人の言い回しやテンポを、よく観察して真似していたね。
でも、海外で戦うというのは、国籍ではなくスキルで勝負するということ。 結局のところ、問われるのは「あなた自身が何を持っているか」。 他人と同じように平均的にできる必要はなくて、自分にしかできない突出した何か、自分だけの領域を持っていれば、どこに行っても戦っていけると思う。
菅:パリのアトリエは、やっぱりフランス語が共通語のところが多いよね。パリのメゾンの面接を受ける時なんて、想定質問や受け答えのフランス語をひたすら丸暗記して、なんとか受かったという感じだったから。
あとは、チームのマネジメントも苦労したことのひとつかも。以前いたチームはヨーロッパ各国の人の集まりだったから、一人ひとり国民性も性格も、考えていることも全てが違う。日本のチームのように「阿吽の呼吸」や「察する」といった感覚は全く通用しない。信じられないような行動をとる人もいるので、一人ひとりの状況を把握して、まとめていくのが本当に大変だったな。
── 言語や文化、コミュニケーションの壁はやはり大きいんですね。
吉田:そうですね。それ以外にも、僕には辛かった経験があります。以前所属していたメゾンでデザイナー(styliste modéliste)として働いていた頃、クリエイティブ?ディレクターの交代をきっかけにチームが解散になり、職を失ったことがありました。 デザイナーが所属する「スタジオ」ではよくあることだけど、家族を養っていかなければならない状況だったし、今では笑い話にできるけど、契約解除を告げられたのが、育児休暇から戻ってきたその日で……。正直、かなり精神的にきつかったね(笑)。
その出来事をきっかけに、自分の中で何かが変わったというか——デザイナーとしてのヴィジョンが描けなくなってしまった。 それで、デザイナーが所属する「スタジオ」から、モデリストなど技術職が集まる「アトリエ」へとキャリアをシフトしました。今では会社を変えることにもすっかり慣れましたが、あのときは本当に怖かった。

吉田隼さん
──?スタジオとアトリエでは、雰囲気もかなり違うのでしょうか?
吉田:全く違いますね。スタジオは、悪く言えば性格がきつい人が多いというか(笑)、常にピリピリしている感じです。「ある日突然、隣の同僚がいない」なんてこともザラにあるんですよ。さっき話したように、僕もその“いない側”になったことがあって(笑)。あのときは本当に焦ったね。
豊嶋:僕は逆に、スタジオでバチバチやっている方が性に合っているのかな、その中で良い結果を出していくのもスキルの一つとして磨いていきたい。ただ、会社都合で自分のキャリアが左右されるのは、この業界の厳しいところ。特にデザイナーは、ディレクターが変われば自分の居場所がなくなるかもしれないという恐怖を常に抱えている。それに経験を積み上げていくことが武器になる技術職であるパタンナーと違って、正直50歳を過ぎて雇われているデザイナーはなかなかいないのが現実。だから僕は、自分で会社を立ち上げて法人としてメゾンと契約しているんです。依存しないように。
── キャリアパスもデザイナーとパタンナーでは全然違いますね。
豊嶋:デザイナーは常に誰かと比べられ続けるから、万が一「ダサい」ものを作ってしまったらもうどう転んでも「ダサいものを作ってるヤツ」になる。ずっと恥をかき続けられる覚悟があればデザイナーはどうにかなるけど、パタンナーはトライアンドエラーの連続で、デザイナーの言ってることが正しくなくても直させられたり気苦労も多そう……。正直、2人はデザイナーのことをどう思ってる?
吉田:うん、僕は元々デザイナー(Styliste Modéliste)として7年近くやってきたから、デザイナー側の言いたいニュアンスがよく分かるし、そこが自分の強みでもあると思ってる。その上で、今アトリエの側から見たときに、僕がデザイナーと働く上で常に意識しているのは、デザイナーにもいろんなタイプがいるから、まず彼らのバックグラウンドを理解しようとすることなんだよね。例えばマチュー?ブレイジーなら、「シャネル(CHANEL)」の前は「ボッテガ?ヴェネタ(Bottega Veneta)」、その前は「セリーヌ(CELINE)」にいて、さらに「バレンシアガ(Balenciaga)」でもインターンの経験がある。彼のクリエイションには、そうした背景が自然と表れているんだよね。
メゾンでは、クリエイティブ?ディレクターの下にも多くのデザイナーがいるわけだけど、だからこそ、一人ひとりのバックグラウンドを理解して、「この人はどういうものを作りたいのか」を想像しながら接するようにしている。そして最終的に、「あなたが本当に作りたかったのは、きっとこれでしょ?」と、その人にとっての正解を形にして見せられるようにしているよ。
菅:デザイナーのアイデアの中には、テクニック的な意味では無謀なものも多々あるけど、それを考えるのが私たちの仕事。それに、頭の中にある工場で相談してみて、やってみたらできちゃうこともある。しかもそれが意外とちゃんと良いものになったりすることもあるね。
豊嶋:できる可能性に賭けて、「ちょっと試しにやってみて」と無理なことをお願いしているかもしれない。
吉田:現場では、「なんかいい感じ」って思わせる力って、すごく重要で、人の手ってやっぱり違うから、同じ指示を受けたとしても、僕と他の人が作るものはまったく違う。そういう感覚の違いが、服の表情やニュアンスに出るんだよね。あとは、メゾンのヘリテージをきちんと把握したり、シルエットがコンパクトになりすぎないように気をつけたり、今っぽさを忘れないことも大切にしている。「彼に頼めば良くしてくれる」と思ってもらえるように、そこは常に心がけているかな。
── パタンナーの「クセ」は良いものとされているんでしょうか。
豊嶋:パンツなんてめっちゃクセだよね。お尻へのアプローチにすごくパタンナーの違いが出る気がする。「そこエッジ効かせるんだ! 」みたいな(笑)。
吉田:それも好みやクセだったり、要はバックグラウンドの表出なんだよね。一方で、慣れがつい出てしまうのを、あえて崩さないといけないシーンもやっぱりある。例えば、デムナ(Demna)が業界で一気に話題になった時、僕は最初、正直何が良いのか分からなかった。でも、自分の好き嫌いだけで判断してしまうと、どうしても限界がくる。だからこそ、「自分が受け入れにくいと感じるデザイン」や「新しいトレンド」もちゃんと受け止めて、「なぜそれが人気なのか」を考えるようにしている。でないと、表現がどんどん偏ってしまうから。自分の頭で考えて、自分なりの答えを出すことは、僕たちの仕事をしている限り忘れてはいけないと思っているよ。

左:菅さつきさん、中央:豊嶋慧さん、右:吉田隼さん
クリエイションだけでは生き残れない、メゾンの社内政治について
── ディレクター変更のたびに求められるものも変化する環境の中で、生き残り成長し続けていくのはどのような人ですか?
豊嶋:自らリスクを取って、自分で環境を作っていける人。会社に依存しないという考え方もそうです。でも人それぞれの生き方だし、人間には向き不向きがあるので、何よりも大切なのは「自分をよく知ること」かなと。
吉田:「とにかくディレクターにどこまでも着いていく」っていうタイプの人もいるよね。それはそれで一つの戦い方だけど。
豊嶋:そう。とにかく自分はどんなキャラクターで何ができるのか、どんな時に一番ポテンシャルを発揮できるのかを把握すること。自分が輝けない環境なら辞めた方がいいと思う。新しい会社に入るたびに“大学デビュー”みたいにキャラクターチェンジをしたって良い。僕も何回も変えてるから。そのプロセスで自分自身を見つけていくみたいな。
本当の自分が「どれ」かなんてわからないんのだから、平野啓一郎の「分人」じゃないけれど、接する相手によって態度やキャラクターを切り替えている人も多いんじゃないかな。でも一つの会社での仕事においては、仕事への取り組み方や態度が一貫していることが大切。だって、ポジションが変わったら急に偉そうになる人はやっぱり信頼を失うし、チームの気持ちを乱さすに仕事に向き合える方が良いからね。僕も仕事以外の余計な問題を仕事に持ち込まないように気をつけています。そもそも誰も仕事相手の「キャラクター」を気遣ってくれたり、「人」としてのケアに時間を割いてはくれないので。
菅:職場によってキャラチェンしてるの、すごいなあ。私はどこにいても基本的に全然変わらない。
吉田:僕は常に意識しているのは、「自分の武器を理解する」ということ。
環境が変われば、求められるものも変わる。だから、自分の立ち位置をしっかり見極めて、そこでどうやって生き残っていくのかって、自分で自分の生き残り方はいつも考えている。特にメゾンを移るときは、必ず意識しているポイントです。
── ブランドが変わって環境がガラッと変化しても、すぐに順応できるものなのでしょうか?
菅:「順応しようとする」というスタンスではありました。でも会社の特性や仕事の進め方に慣れるのには時間がかかるものなので、ボスには先に「アダプトするまでに少し時間を頂戴」と伝えておいたり。
吉田:僕もブランドをいくつか変えてきたけど、それでも初めての職場って、いつまで経ってもやっぱり怖いよね。
菅:ブランドごとの暗黙のルールとかも色々あるしね。でも、そこに合わせていくのもパタンナーに求められるテクニックの一つだから、できなければ「合わない人」になってしまうだけ。他所でやってください、となってしまう。
── ブランドを変えれば変えるほど、幅広い経験が積まれていくという価値観が主流ですか?長く一つのブランドで働き続けるという選択肢も?
菅:履歴書においては、どのブランドのどんなポジションで働いてきたか、が重視されると思う。私は採用面接もするので色々な人を見てきましたが、幅広いブランドを知っていることは悪いことではないけど、かといって在籍期間が短すぎると少し心配かも。
── 変化の多い環境の中で、「自分の居場所」を作るために実践していることはありますか?
豊嶋:今所属しているメゾンで以前僕を特に評価してくれていた方が、別のメゾンに移ってしまったんだけど、そういう人にも積極的に会いに行って話をしています。社内の評価って結局「クリエイション」だけでなく「人間性」でもあるからね。社内外関係なく自分を信じてくれた人を大切にしたい。もともと社内政治のようなことはかっこ悪いと思っていたけれど、視点を変えて大切な仲間と良い人間関係を作っていきたいと思って人を長く大切にしていたら、次第と評価も上がっていきましたし働きやすい環境になってきました。
菅:特にデザイナーは人間関係が大事だと思う。
豊嶋:それがある意味自分の「プレイグラウンドを耕す」ことになるんだよね。僕はあまりアンダープレッシャーの中で仕事をしたくないんです。そういう環境だと自分が輝けないから。どう頑張っても理解されない人や攻撃してくる人からはさっさと離れる。そういう環境で努力しても結果を出すのは難しい。だから自分がどういう人間で、どういう場所で輝けるのかを知って、努力すべき場所を自分で見つけること。情熱を持ち続けるのが人生で一番大切なことだから。
吉田:そうだね、情熱がないと続かないもんね。その上で、その情熱をちゃんと守れる環境を選ぶこともすごく重要だと思う。
豊嶋:メンタルがやられると情熱を失いそうになることもある。環境のせいで陥るメンタルの不調ってファッションとかクリエイションとは無関係なはずなのに、自分の体調が悪いだけで気持ちが弱くなったり。僕は自分にそういう繊細さがあることも自覚しているんだよね。そういう意味で、メゾンの下で輝く人もいれば、自分のブランドを持つのが向いている人もいると思う。
菅:どっちが正しい、とかではなくてね。
豊嶋:承認欲求が高い人は、メゾンのスタジオやアトリエはお勧めしないかな(笑)。あくまでも、ディレクターのブランドだからね。
(後編につづく)
後編では、ファッション業界だけでなく、全てのビジネスパーソンに通じるプライベートと仕事の両立や人間関係?コミュニケーション、自分にあったキャリアの築き方について、そして海外を目指す若い世代へ向けたアドバイスを聞きました。
Photography: Koji Hirano
interview & text: Chikako Hashimoto
interview: Chiemi Kominato
最終更新日:
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