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1958年の創業以来、日本を代表するアパレルメーカーでありながら、ゴルフやワインといった他シーンもけん引してきたジュン(JUN)。同社は、藤原ヒロシ氏との期間限定コンセプトストア「ザ?コンビニ(THE CONVENI)」や、WEBメディア「ハイプビースト(HYPEBEAST)」のゴルフライン「ハイプゴルフ(HYPEGOLF)」のアパレル運営などを行ってきたことでも知られ、今年9月にネットフリックス(Netflix)が渋谷にオープンしていたポップアップストアでもリテールを担当した。そして、これらを仕掛けてきたのが常務取締役上級執行役員の太田浩司氏だ。太田氏は、学生時代よりアルバイトでの販売員を経て、デザイナーとして1997年に入社するも一度退社し、2015年に約15年ぶりにジュンに復職。その後、数々のコラボプロジェクトを率いるようになり、わずか4年で執行役員に就任。2023年に現職となった実力者だ。これまで表舞台に立つことがなかった影のキーパーソンに、入社の経緯から再就職までのキャリアや、コラボプロジェクトの成功への導き方などについて訊ねた。
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太田浩司 常務取締役上級執行役員
建築学生からアパレル業界へ ショップスタッフからデザイナー職に
──?まずは、太田さんのキャリア遍歴からお伺いできればと思います。新卒でジュンに入社されたそうですが、学生時代は服飾の専門学校などに通われていたのでしょうか?
いえ、学生時代は4年制の大学で建築?土木を専攻し、主に都市計画や空間デザインなどを勉強していました。今でこそ建築というと、カルチャライズされておしゃれな見え方もしていますが、僕が学んでいた学科では、デザインとしての建築というよりも機能重視の傾向が強くて。ただ、ファッション誌などでは建築やインテリアの特集が組まれていることもあったので、そういったものを読んでいるうちに服にも関心を持ち、19歳の時に名古屋パルコの「アダム エ ロペ(ADAM ET ROP?)」でアルバイトを始めました。
── 小さい頃からファッション自体はお好きだったんですか?
地方出身者でもあり、東京や東京のファッションへの憧れが強く、例えば藤井フミヤさんがカッコ良いと思ったら、自然と「アンダーカバー(UNDERCOVER)」、そして藤原ヒロシさんを、とファッション誌で全てを学んでいました。具体的にファッションに強く興味を持ったのは、大学入学後。父親や叔父が建築系の仕事をしていたり、祖父も銀行を退職後に大工をやっていたことがあったりと、木材などの資材にあふれた環境で育ったので、小さい頃からモノを作ること、創造することが好きでした。
── アルバイトを経て、建築業界ではなくジュンへの入社を決めた理由とは?
アダム エ ロペでのアルバイト時代に、大学で空間デザインを学んでいたこともあり、店長にディスプレイを担当したいと伝えると、任せてもらえることになったんです。最初に作ったのは、覗き窓のディスプレイでした。ウィンドウの全面にカッティングシートを貼り中央に小さな穴を開けて、中を覗くとミラーボールのような半球状の空間に洋服が吊り下げられているといったディスプレイでした。そこから何度か担当させてもらい、今で言うとVMD的なことですかね。その当時はVMDという言葉すら知らなかったですが、そういう仕事もあるよと提案されて。元々の東京への憧れもあり、東京で働けるなら、とジュンに就職することを決めました。最初は名古屋パルコで販売員として勤めながら東京に呼ばれるタイミングを待ち、半年後に声が掛かったと思ったら、ポジションはVMDではなくメンズのデザイナーだったんですが(笑)。
── それはなぜですか?
その時ちょうど「アダム エ ロペ」のデザイナーや企画を担当していた先輩が抜けることになり、後任としての着任でした。その先輩とは趣味などの話もよく合い、僕を推薦してくれたようでした。ただ、履歴書を見れば僕がファッションの勉強も洋服のデザインも経験がないことなんて分かりますよね(笑)。それでも、デザイナーとして東京で働くことが決まったので、ジュンはその当時からチャンスを与えてくれる会社だったんだなと思います。
初めてのデザインは、ハンティングジャケットをサンプリングしたコットンシャツでした。当然、チーフからは「デザインの理由を説明してほしい」と言われ、「カッコいいから」としか返すことができず、しこたま怒られたことは今でも忘れません(笑)。その日から半年ほどはデザインをさせてもらえず、とにかく生地を触ったり、社内のパタンナーの方に構造を教えてもらったり、イチから洋服を学ばせていただきました。
「生意気だった」一度目の退社と、15年間のキャリアで得た視点
── しかし、入社から数年で退職されたそうですね。
その頃は業界全体が中国製への移行期で、ジュンも同様でした。今でこそメイドインチャイナは当たり前で、クオリティも高いですが、当時はまだまだデメリットも多くて。会社の意向と考えが合わなかったので、退職を決めました。今考えると本当に生意気だったと思います。
その後、デザインから生産、営業までを行うODMの会社に就職したのですが、営業に行くと、自分でデザインしたものが受け入れられないのは日常茶飯事で、どれほど恵まれた環境に身を置いていたかに気付かされました。ただ、当然だったことが当然じゃなくなることを経験し、それだけで視野はグッと広がりましたね。それからは、また別のアパレルメーカーで新規事業の立ち上げを行い、某ラグジュアリーメゾンでPRを務めた後、一度リセットも兼ねて福井の実家に戻ったんです。地元では、東海圏を中心に展開している大手のドラッグストアで化粧品部門のバイイングとオリジナルプロダクトの開発?企画を担当していました。しばらくして知人の紹介で東京に戻るきっかけをもらい、某ストリートブランドに携わるようになり、その後、最終的に約15年ぶりにジュンに復職しました。
──?このキャリア遍歴は、ジュンに入社した当初は描いていなかったと思いますが、いかがですか?
その時々で何をやりたいか、自分はどうありたいかの判断をした選択の結果で、「こうなりたい」という考えは、当時も今もあまりないのかもしれないですね。とにかく常に自分たちが「おもしろい?楽しいと思うこと」を、世の中の人にも共感してもらえたら嬉しいです。
── 最終的にジュンに復職された理由は、アルバイト時代に感じた自由度が大きいのでしょうか?
人生で一番最初に籍を置かせていただいたというか、19歳の時からお世話になっていた会社なので、ある意味「実家」のような感覚で、離れていた15年間も動向は常に気になっていました。今でも佐々木社長はよく「出る杭は打つのではなく、活かすために抜こう」とおっしゃるのですが、その言葉通り同期や後輩たちが与えられたチャンスを掴んでいるのも傍から見えていたんですよね。それに、ジュンという大きな規模の会社だからこそ、やりたいことがもっとやれるんじゃないかと思い、1人のデザイナーとして再入社しました。ですが、担当していた事業が途中で無くなってしまったんですよね......。ただ、洋服の販売、デザイン、製造、PR、とさまざまな分野に関わってきたこともあり、佐々木社長と面談して、ジュンの会社全体のモノ作りをコントロールできるR&D(Reserch & Development)に異動させてもらいました。
── ジュンと藤原ヒロシさんによるコンセプトストア「ザ?コンビニ」は、どのようにして進んでいったのでしょうか。
R&Dとして具体的に手を動かしていたプロジェクトの1つが、「ザ?コンビニ」でした。当初、「ザ?コンビニ」の前身とも言える「ザ?パーキング銀座」が存在していたのですが、会社から「新しいプロジェクトを始めるから参加してほしい」と声をかけられ、それが後の「ザ?コンビニ」でした。
最初に「コンビニ」がコンセプトのストアとお話をいただき、色々アイデアディスカッションをさせていただきました。ペットボトルTシャツや、サンドイッチ風バンダナなど、「おもしろいじゃん」と言っていただき、そこから枝葉を広げるような形で進行していきました。ヒロシさんとの仕事の進め方は、常にフラットに、色々なアイデアをブラッシュアップし、最適な答えに導いてくださるイメージです。あとは、不思議と仕事以外の会話の中で思い付くことも多いです。もう7?8年お付き合いさせていただいていますが、常に勉強になることばかりです。

ザ?パーキング
Image by: Atsushi Fuseya(magNese)

ザ?コンビニ
Image by: Atsushi Fuseya(magNese)
── 「ザ?コンビニ」と同時期に、雑誌「トキオン(TOKION)」のフラッグシップショップ「トキオン ザ ストア(TOKiON the STORE)」や、ゴルフメディア「ハイプゴルフ(HYPEGOLF)」のアパレルラインも手掛けられていたそうですね。
「トキオン ザ ストア」は、ミヤシタパークの開業時に、トキオンさんを主軸にリテール部門のパートナーとして販売をサポートさせていただき、「ハイプゴルフ」は僕からケヴィン(*ケヴィン?マ「ハイプビースト」設立者兼編集長)に連絡したことがきっかけです。ちょうどコロナ禍でゴルフ人気が高まっている中、彼が「ハイプゴルフメディア」を立ち上げていたので、「何か一緒にやれることはないかな?」と連絡し、ブランド化とストアプロジェクトを提案したところ話が進みました。
── 「ハイプゴルフ」のプロジェクトは、なぜオファーしたのでしょうか?
単純に「おもしろそうだな」という感覚は大事にしていますが、当然ジュンとのカルチャー的な相性は大前提としてあります。あまり知られていませんが、ジュンはゴルフ場を運営していますし、佐々木会長は80年代に日本初のエアロビクス?フィットネススタジオをオープンしたりと、スポーツ文化が根底にあるのでゴルフにはシナジーを感じたんです。
── 何かを仕掛けたり、誰かと協業したりする際、今おっしゃられた“おもしろそう”という感覚と、ジュンのDNAとのシンパシーを大事にしているんですね。
ヒロシさんとの仕事を通じて、自分が大事にするようになった考え方でもあるんですけど、売れるか売れないかではなくて、まずは、おもしろいと思えるかどうかを大事にしています。お客様に届けようと思ったとき、それが売れるかどうかの判断基準は難しいのですが、それがおもしろいと思えるものであれば、絶対に伝わるんですよね。もちろん「どちらが売れるか」という分岐に立った際は、売れると思う方に寄せて落とし所を探っています。

ファッションブランドがIPだった時代は変わりつつある?
── 最新プロジェクトのひとつであるNetflixとの協業は、何がきっかけだったのでしょうか?
Netflix社がオリジナル作品の世界観をデジタルだけでなくフィジカルで体験できるプロジェクトを模索しているという話をお聞きし、お会いしたら、プロダクトのディレクターが偶然知り合いだったということもあるのですが、なにより波長が合いました。最初は、「極悪女王」の舞台でもある後楽園ホールでライブグッズを売るお店のようなものを出して、その後「地面師たち」のTシャツを作りました。
渋谷での10周年のポップアップは、作品の世界観が体験できることをコンセプトに掲げていて、その中でジュンは2つのリテール領域を担当しました。1つは、16個のタイトルデザインの中から好きなものを選んでプリントできるTシャツファクトリーで、もう1つは一般的なアパレルや雑貨などのグッズが購入できるコンビニエンスエリアです。
──?「地面師たち」とのTシャツは出演俳優の写真を使用したりと、他企業のNetflixのIPコンテンツとは趣が異なり、世界的にも珍しい事例です。
基本的にNetflixさんのIPコンテンツは、彼らが持っているアセットの中からデザインするのですが、僕らはダメもとで、アセット以外の「俳優さんの写真を使用したアイテムを作りたい」と提案したんです。他企業と仕事をするときなどにも言えることなんですが、叶わないかもしれないアイデアでも提案すること自体は自由じゃないですか。言うのはタダですし。もちろん、NGの場合もありましたが、紆余曲折を経てジュンとでしか作れないアイテムができた時は嬉しかったですね。この先、年末にかけても大規模なポップアップストアを計画しています。楽しみにしていてください。

「地面師たち」TシャツとNetflixオリジナルロゴTシャツ
── 2015年に復職して以降、さまざまなコラボプロジェクトを手掛けてきた中、2025年からはパルコ会常務理事会にも所属されていますね。
佐々木社長がパルコ会の会長だったんですが、今年で退任することになったのでそのタイミングで僕が担当になりました。昔のパルコさんはファッション要素が強かったと思いますが、今は少し変わりましたね。これはどっちが良い悪いではなく、“その時代に合ったカルチャーを集めた館”だからだと感じています。一方で、ジュンもスローガンに“YOU ARE CULTURE.”を掲げているようにカルチャーを事業化したいと思っているので、パルコさんと一緒に業界を盛り上げて未来を作っていきたいという意思があるんです。
── 太田さんのような執行役員クラスの方が、デザイン面や現場で動いたりすることは、ファッション業界だと非常に稀有です。経営とクリエイションの両輪に携わっているからこそ、互いに作用し合うことなどは実感しますか?
両輪のメリットは100%あると思っています。自分のプロジェクトの中ではある程度の決裁権をいただいているので、現場で出たアイデアに対してアイテムの良し悪しと経営判断としてのジャッジを同時に想像しながら動けるんですよ。「ちょっと持ち帰って聞いてみます」というプロセスがないからプロジェクトが効率的かつスピーディに進みます。学生時代に学んでいた建築の都市計画は、どうインフラを整えるか、どこに道路を走らせるのか、何をすれば良い街になるのか、いわば都市をデザインすることなんですけど、感覚的にはプロジェクトと一緒なんですよね。どうすれば組織を正常に機能させることができるのかを考えるのは、僕の中では都市計画と変わらないです。
── 今後のミッションや展望を教えてください。
何がやりたいかって言われると難しいんですけど、これまでは割とショートタームのプロジェクトが多かったんですよね。瞬発力のあるおもしろい事業はもちろんですが、カルチャーを脈々と根付かせて事業として形にすることをもっとしていきたいと考えています。それが具体的に何かというと、IPです。「コム デ ギャルソン(COMME des GAR?ONS)」の名前自体がIPでありファッションスタイルであるように、昔は「どこの何を着ているか」がカッコいいに結びつく感覚が存在していました。ところが、今のIPはアニメや漫画のキャラクターに寄っている側面がありますよね。だからこそ、今のIPに沿った自由なビジネスの形もジュンとしてトライしてみたい。また、僕はずっと今のような働き方はできないですし、自分自身の成長も兼ねて、組織作りに着手しているところです。
── 若い世代にアドバイスをするとするなら?
先日、ある大学で講義をさせていただく機会があったのですが、学生の皆さんは、学校の専攻で将来の職業を決めるべきか迷うことが多いようです。なので、その時の講義の中で、学生が一番興味を惹かれたのは、僕が企業に勤めていながら洋服の勉強を全くしてこなかったという話なんですよね。だから、「今勉強している内容で今後の人生を決める必要はないし、2年後に変えたっていい。5年後から勉強を始めてもいいんじゃないですか。いつでもどんな環境でも学びはあるし、成長?変化を楽しんでほしいと思います」と言うことですかね。

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