Image by: FASHIONSNAP
2025年9月17日、私はいま、「ポト(POTTO)」のファッションショーに来ている。会場はセレクトショップ「ハウス@ミキリハッシン」コレクションテーマは「ギフト」。
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そしてモデルをしながらコレクションレポートをリアルタムで書いている。「当日は自分の好きなことをしていて欲しい」との連絡を受けたので、新しい挑戦としていままさに、コレクションモデルをしながら書いている最中だ。

ブランドの一役を担いながらコレクションレポートを書くのは初めてだ。本来ならば、文章を読みやすいように編集をするのだが、実況という「なま」感を楽しんでもらいたい。話が脱線したり、拙い文章から臨場感を受け取ってもらえると嬉しい。
私はいま、POTTOの新作を着ながら書いているが、正直に言えば少し恥ずかしい。私の服には袖と襟にフリルがついているからだ。私はフリルがついている服を買ったことがないし、一度も着たこともない。しかし、このシャツは私のために作られている。2ヶ月前にオンラインでデザイナー山本さんと1時間くらい話をした。山本さんは私のことを丸裸にするような雰囲気を醸し出し、インタビューを得意とする私でさえ自然と素直にペラペラと答えていた。その後、いくつか質問が送られてきて、 私はこう答えた。
?何か信じているものはありますか?
偶然は必然
?今まで嬉しかったこと
他人の子供に気に入られたこと
?今まで悲しかったこと、嫌だったこと
仲間はずれ
?自分は?
自分に興味がない人間かもしれない
?死んだら?
何もない
?愛は?
見返りを求めると価値がなくなるもの。愛する行為に価値がある
山本さんから見た私は、シャツにフリルがついているのだ。「可愛い一面があると感じた」と言われて戸惑いながらも、そうなのかもしれないと自分を受け止めてる真っ最中である。とても興味深いのは会場にいるいろんな人たちから「似合っている」と言われたことだ。そこには、他者から見る「私」と、自分が思う「私」がチグハグであることをファッションという媒体を通じて知った。40歳を手前にしてフリルが似合うとはなんとも複雑な気持ちであるが、この機会がないと知り得なかったことだろう。
この経験は私だけじゃなく、モデルに選ばれた全ての人が同じである。スタイリスト、歌い手、デザイナー、カメラマン、編集者、料理人などジャンル違いで活躍するモデルが集められ、職種だけ見るとまるで小さな街ができそうだ。そして今回選ばれたモデル全員に特別な一着を作っている。みんな「自分が思う自分」と「他者から見る自分」の差異を楽しんでいるのではないだろうか。



基本、ブランドからコレクションの案内をもらうと新しいものを期待するが、今回のPOTTOは「誰かのために」が集まったコレクションである。量産可能であり、品番にはそれぞれの名前が記されるようだ。つまり今季は私のために作られた洋服がコレクションの一部となり、モデルの数だけ特別な一着が集まって、今季の新作になっているのだ。
本来、その解説あるいは翻訳をすることがレポートの基礎であるが、私がいうのも大変恥ずかしいことだけれど、POTTOを言語化することがとても難しい。新しい技術を使うわけでもなく、デザイナーは強いメッセージを伝えたいわけでもない。解釈に余白が多いブランドである。だから、執筆者としての技量が問われる。また、POTTOのコレクションショーは洋服以外の「仕掛け」が多いのもまた迷宮に入ってしまう。ライターはつい「仕掛け」を解説してしまいがちで、肝心のコレクションに触れることなくレポートしてしまうからだ。ただ、今回はモデルをしながら執筆をして、感じることは「ファッションの主体性はどこにあるのか」だという問いである。話は飛躍するが、マルタン?マルジェラ(Martin Margiela)の功績はさまざまな側面があるけれど、一つはファッションの主体性を問うたことだろう。貴族文化が強いファッション業界において、庶民を主体として可視化し、コレクションで表現したことが歴史の転換であったと思う。今季のPOTTOは、まさにそれを体現していて、さらにはパーソナルな内面を一点一点に落とし込むことで、洋服からコミュニケーションが生まれ、人との関係性を可視化し服に奥行きが出る。
「他者と私」の関係をファッションから受容する、または発信?発見する。POTTOはそこを大切にしているように思えた。



一つ気になるのは、14年前と同じ形式で発表したことだ。当時は東日本大震災が起きた年。悲惨な現状とエンタメの自粛。また不都合な情報はTVに流さないことが明らかになり、何も信じられない混沌とした心情だった。国内は不穏な情勢の中で、ただ生きていくことしかなかった。広義な意味で今年の出来事と無理矢理結びつけるならば、さまざまな世界情勢が起きており、都市伝説で話題に挙がった「とある予言」もあった年。2011年と2025年、もし通じているのならば山本さんは、私たちに溜まったストレスの塊に針で風穴を開けて風通しをよくしてくれる存在である。ファッションを語る為に必要な文脈や現代性など小難しいことを一旦棚に置いて、「かわいい」という共通言語で繋がれる世界を大切にしている。とてもプリミティブな感覚を共感し合ったり、体験することに重きを置いているのであろう。今回のコレクションで一つ言えることは、誰かを思いながら作ること、そしてデザイナーが自分のために作ったものを着る高揚感は、代替え不可能な体験であった。デザイナーと服を着る側の関係で1番単純で、清く、心地よいものである。
そして、ショーは終わり、いまは帰りの電車の中でまた執筆を始めている。結果、約3時間のショーの中で原始的な体験の良さしか語れない悔しさを噛み締めている。先ほども記述したように、POTTOのショーは捉えどころが難しい。何が正しいかが分からなくなってくるからだろう。受け手の価値基準が揺さぶられ、私の理解力を試されているようだ。まさにPOTTOの世界に迷い込んでいるのだ。ただ、言い換えるならば、ファッションの答えや正しさは一つではないとも解釈できる。コレクションを振り返るとTシャツや短パンといった軽装から、メンズのセットアップ、ウィメンズのワンピースやスパンコールドレスといったジャンルが違うアイテムも全て新作の中にまとまっている。山本さんにとって洋服という広義の意味では「同じ」なのであろう。そこに受け手にとって解読の難解さはあるが、それが面白さであり、単純に「かわいいだけで良し」ということであり、長年愛される理由なのだろう。
帰り際に「僕は2011年と2025年は通ずるモノがあると思っています」と山本さんに伝えると「いまは戦争中だと感じている」と一言答えてくれた。私の予想は間違ってなかった。SNSから流れてくる悲惨な光景に無力を感じながらも精神的な痛みは伴う。そんな繊細な感情に向き合い、そして普段生活していて気づかないし見えないストレスが少しずつ溜まっていく現実に山本さんは反応していた。「平穏で明るい生活」をファッションショーのなかで人々の生活の延長戦のような空間を作り、未来に希望を持ちにくい世の中でも「私たち」という主体性を取り戻したかったのだろう。

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