IMAGE by: 左)森村泰昌《光るセルフポートレイト(女優)/白いマリリン》 1996年 作家蔵(豊田市美術館寄託) 右)Sou Suzuki
会期中も会期後も読める新たな批評の在り方を模索。会期後のレビューではなく、会期中の展覧会を彫刻家で文筆家の鈴木操がレビューする同連載。第5回は渋谷区立松濤美術館で開催中の「装いの力-異性装の日本史」。鈴木は同展をどう見たのか。
この連載か?始まった頃からコロナ禍による様々な制限の緩和か?進み、しかしロシアのウクライナ侵攻か?作り出している世界の不安定化にあってか、世間て?は「ウェルヒ?ーインク?」なんていう規範性の強い言葉か?ちらほらと見られるようになっている。このような、人々の心理的不安を突いて偽の欲望を押し付け刷り込んて?くるものに対し、私たち大衆は非常に弱い。こういった個人か?陥りか?ちな通俗的な弱さに対し「装いの力―異性装の日本史」展は、個人か?持ちうる活動的な強さを史的に示し、「装い」という実践か?展開しうる必要な空間を開くという観点から見ても、非常に充実していたように感し?た。ます?はこの展覧会か?、現代社会において重要なシ?ェンタ?ーやセクシュアリティの現れについて「異性装」という行為に焦点を当てなか?ら日本の文化史の中て?系譜的に整理し、丁寧に観客へ開こうとするものて?あったことは、真っ先に伝えねは?なるまい。テーマに対する方法的な丁寧さは、企画者の強い意志のもとて?しか発現されない。何かテーマを設けて公共的価値を問う機能を持つ美術館という組織か?、「異性装」というテーマの展覧会を組むことの意義は、現在の鬱屈した社会においては特に大きいた?ろう。「異性装」を系譜的に見せることて?、私たちか?日々と?のような文化的基盤において装い、暮らしているかを多面的に明らかにしようとする意図か?展示から具体的に感し?られ、非常に示唆に富む内容て?あった。
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古くは古事記に登場する日本武尊(ヤマトタケルノミコト)か?異性装て?行った暗殺の物語から始まり、武家社会の中て?戦う様々な女性たちや歌舞伎の一場面か?描かれた錦絵の数々、近現代の章て?は田中千代の「いかり肩スーツ」に、池田理代子の「ヘ?ルサイユのは?ら」の漫画原稿、大野一雄の「ラ?アルヘンチーナ頌」の公演ホ?スター、女装雑誌「くいーん」、また現在第59回ウ?ェネチア?ヒ?エンナーレ国際美術展の日本館て?展示中のタ?ムタイフ?による舞台作品「S/N」の記録映像や、ト?ラァク?クイーンによるエンターテインメントタ?ンスハ?ーティーDIAMONDS ARE FOREVERによる衣服のインスタレーションと、ここに書ききれない程の様々な作品や資料を紹介し、その多岐にわたる品々にもかかわらす?非常に見やすい章立て構成て?あった。また私か?足を運んた?日は、老若男女様々な観客に溢れ、その光景はまさに展覧会の注目度を表しているようた?った。他方て?気になったのは、全体的に男性による女装の表象か?割合として多かったことて?ある。この問題については「装いの力」展に対して言及するのて?はなく、私たちの社会構造の問題として真摯に受け止めるへ?きものて?あり、継続してこの問題意識を展開していく必要か?あるた?ろう。私はこの問題意識か?、広く社会て?共有されることを望んて?いる。
ともあれ今回「装いの力―異性装の日本史」展は、社会においてシ?ェンタ?ーやセクシュアリティの問題意識か?現れてくる契機を「異性装」を通して開いていくた?けて?なく、「異性装」という装いを保存し流通させる衣服、絵画、写真、映像、漫画といった諸形式のメテ?ィア性を強く再認識させる展覧会て?もあったことも指摘しておかなけれは?ならない。この企画か?、時代を超えて物と物を照応させアーカイヴ性を引き出し強調して扱うことて?、広い意味て?の「装い」に関わる"人間の欲望と抵抗の記憶"を読み直すことを可能にする空間を展開したことは特筆すへ?き事柄て?あったように思う。と言うのも、現代において公共空間における私たちの性を含むセルフイメーシ?の構築は、従来の雑誌や広告、今て?はInstagramやTikTokに代表されるSNS等の各メテ?ィアにおいて、写真や映像を媒介して形成されている。様々な人格やアイテ?ンティティはもはや、ホ?ッフ?カルチャーやテクノロシ?ーを軸にして経済的に構築されていると言っても過言て?はない。高度に産業化された社会に暮らす私たちの欲望は、私たちを取り囲むフ?ロタ?クトに先回りされる形て?、すて?にそれに書き込まれてしまっている。私たちの欲望の輪郭線はすて?に描かれており、私たちは商品として存在している物の中から自らの欲望を探り当て、欲しいものとして選は?なくてはならない。それゆえに「異性装」という系譜の構築は、フ?ロタ?クトか?押し付けてくる規範的な偽の欲望の"裏をかくような装い"に構造を与え、「装い」という行為か?、単なる消費以上の何かを私たちにもたらす可能性か?あることを再確認させる。
その上て?、今回私か?「装いの力」展を観なか?ら気になったのは、装いの"力"か?現在と?のような状況において発現し、あるいは構築され、人々の主体性を解放しうるかという点て?ある。そういった観点から見た時、6章「近代化社会における異性装」て?展示されていた、明治7年(1874年)に落合芳幾によって描かれた「東京日々新聞813号」という錦絵新聞か?、私にとって深く印象に残った。この錦絵新聞の内容は、明治4年に制定された戸籍法の手続きによって、とある夫婦の妻か?、実は女装する男性て?あったことか?露見したことを扱ったものた?。そもそも夫は、妻か?女装する男性て?あることを承知の上て?結婚し、すて?に三年か?経過していたか?、この関係性か?露見したことて?彼らの婚姻関係は無効とされてしまう。そのうえ妻は見せしめて?、女性の髪型て?ある丸髷から短い散切り頭にされてしまう。錦絵に描かれる散切り頭に女性的な小紋の着物て?針仕事をする妻の姿は、事件の顛末と共に見ると非常に痛ましい印象を与えるた?けて?なく、当時の人々の目にはかなりスキャンタ?ラスなものとして映ったて?あろうことか?想像て?きる。この錦絵新聞か?描かれる直前の明治6年には「違式詿違条例」という社会風俗を取り締まる一種の軽犯罪法か?制定されている。この条例は、西欧諸国に対し恥す?かしくないように、風俗や習慣の規律を整備し、人々の振舞いや身なりを矯正することを目的としたものて?あり、また異性装も禁止と罰則の対象て?あった。こういった経緯から、この時期の錦絵新聞て?は度々異性装者か?取り上け?られていたようた?。しかし国の取り締まりとは裏腹に、数々の異性装を扱った錦絵新聞か?伝えているのは、逆説的な「装いの力」の証明て?あり、非常に興味深い。近代化か?進む当時の社会の風潮は、人々の装いの在り方に対し非常に厳しい眼差しを生み出しており、その眼差しの在り様は、実は現在においてもさして変わらない。他方て?、このような「装い」を介した社会的な規範意識の規律訓練は、同時に抵抗=逸脱としての「装いの力」を、人々の意識へと運ひ?込んた?のも確かて?あったはす?た?。6章「近代化社会における異性装」は全体的に、そういった人々の意識を掴もうとするセクションて?あったし、現代と地続きて?ある以上、この問題意識は今も継続していることを私たちに突きつける。
この装いの”力”か?、私たちの中にあるものなのか、それとも社会的に構築されたものなのか、装い自体の中にあるのか、それを完結に割り振ることはて?きないか?、少なくとも異性装に限らす?、私たちは日々衣服をまとい、常に「装いの力」と共に、自らの身体的あるいは精神的イメーシ?を構築し続けている。その意味て?この”力”は、私たちの日常生活において非常に身近なものて?あるし、常に今この瞬間も私たちの身体と精神に深く関わり続けている。 産業化された社会に生きる私たちは、完全なる手作りの衣服や伝統的な儀式の装いなと?を除いて、産業的?商業的て?ない衣服か?存在しない環境に暮らしている。このように少し自虐的に「装い」を受け入れたとして、シ?ェンタ?ーやセクシュアリティにまつわる問題を含めた、今広く議論か?交わされている”公共性の知覚”は、す?っと以前からメテ?ィア?テクノロシ?ーや、衣服を含めた様々な日用品、そしてインテリアや住宅といった、産業的生産の諸体制に方向つ?けられており、ある意味て?私たちの「装い」は、産業社会においてテ?サ?インされ服従させられている。公共性の知覚を具体的に指し示すならば、学校生活における制服がそれにあたるだろう。
それを充実した暮らしと捉えるか、息苦しくてつまらない暮らしと捉えるかは、当然人それそ?れて?あるか?、しかし自分か?置かれている環境に自覚的て?あることから始められるものか?ある。現代において「異性装」か?示す価値とは、このような産業社会か?計画的=テ?サ?イン的に生み出したシームレスに繋か?る生産と消費の境において"文化的な余地=遊びの空間"を発見する行為て?あるという点にあるた?ろう。先の制服の例で考えてみれば、学校側がスラックスとスカートをどちらも用意し、自らの性自認に関わらず任意でどちらを着用するかを学生が選ぶことができるのはまさに”文化的な余地"と言えるだろう。
つまり「異性装」は現在における個人、自由、主体性を再発見し、受動的にテ?サ?インされた主体から、セルフテ?サ?インする主体へと自らをカスタマイス?し変化させる契機を私たちに指し示している。た?からもし、現在において「装いの力」か?何て?あり、また何になりつつあるかを問うのて?あれは?、誰に向けてその問いを発するへ?きかを私たちは知っている。今、ノンハ?イナリー、アセクシャル、LGBTQ、といった言葉に慣れ親しみ始めている若者に向けて、この問いは発せられなけれは?ならない。例えは?「異性装」という装いは、「シ?ェンタ?ーレス」という価値観とと?のように関係するた?ろうか。この問いに早急に答えることはて?きないし、私一人か?ここて?問答しても意味か?ない。とはいえ、私たちのセルフイメーシ?(自己同一性という統合された性の自覚の手前としての)は、この30年ほと?の間て?、インスタントカメラや携帯電話の写メを経て、今て?はスマホて?撮るセルフィーや動画配信といった撮影行為を媒介した形て?、日々目まく?るしく輪郭線は書き換えられ揺れ動き続けている。それは視覚的て?あるた?けに留まらす?、衣服の着脱やヘアメイク、生活空間を彩る様々なアートや日用品、そしてインテリアを通して身体的にも触覚的にも揺れ動いている。私たちは日々、言葉にて?きない不安定かつ曖昧な性の感覚を感し?なか?ら、人や物あるいは植物や動物なと?の様々な事物、社会的な出来事や関係性の間を彷徨い、その都度その瞬間「女性」「男性」といった分かりやすさ、機能、効果を生み出す。私たちは通常、社会的な生き物として自分たちを理解している以上、言葉=法を必要とし、戸籍において性を固定し登録する必要か?確かにある。た?か?そのような言語の次元において構成された性の認識は、流動的な精神の動きや欲望といった次元において、解体と再構築を繰り返しており、多くの人々はその各「性」においてそういった曖昧さを、秘密裏に個人的な経験として知っているはす?て?ある。「装いの力―異性装の日本史」展は、その曖昧な感覚を繰り返し指し示しており、私たち観客はそれに対し目を逸らしてはならない。
ところて?私は、今このタイミンク?て?「装いの力―異性装の日本史」展か?開催されたことも非常に感慨深く思っている。というのも、コロナ禍において日々私たちはマスクを着ける行為を大量生産し、衛生倫理の模倣としてその行為を複製し続けているか?、この抑圧的な規範性か?私たちにもたらしたものは一体何た?ったのかを問う必要を感し?ていたからた?。約2年前、私の友人であるファッションテ?サ?イナーはコロナ禍初期において、普通の不織布のマスクの片側の紐をあえて雑に長くカスタマイス?し、変にス?レた感し?て?鼻と口を覆う形て?着けていた。その様子を見たとき、非常に奇妙な印象と笑いか?こみ上け?た。彼は、下手に自分て?テ?サ?インしたマスクを着けたりしないことて?、自身か?ファッションテ?サ?イナーて?あることより、ファッション=装いか?持ちうる「力」を実験的に試して、その実効性を見極めることを楽しんて?いた。このように「マスクを着ける行為」か?マスクを着ける行為のハ?ロテ?ィとなっていることを、ファッションテ?サ?イナーか?真っ先に気か?ついていることに、私は驚いたし、彼のファッションへの誠実さを見た。この偽善と腐敗の世界て?、正直者て?いることと良い趣味を持つことは非常に難しい。彼はその好例て?あるし、このケースは特に「異性装」というわけて?はないか?、個人を貫く"装いのハ?トス"として見たとき、「装いの力―異性装の日本史」展に並ひ?うる事例て?あると思ったのて?、ここに紹介した次第て?ある。
私たちは現在、ホ?スト?コロナやニューノーマルといった言葉て?、自らか?置かれた状況を理解しているかのような気分て?日々を集団的に過こ?しているか?、ここまて?記述してきた「装い」という行為に限らす?、現在の環境の限界や条件を査定するような実効的試みを、個人か?と?れほと?行ってきたた?ろうか。今やSNSを筆頭にインターネットは様々な社会的人格やアイテ?ンティティについての生理学的情報を人々に提供するネットワークとなっている。その環境の中て?私たちは、ますます"人間通"として生きていくことを強いられている。しかし、いくら社会的人格やアイテ?ンティティを類型的に捉え、その知識を深めて人間通になったところて?、自らの身体と精神をと?うするかという問題を解決することにはならない。ましてや人間通を深めるために「装いの力―異性装の日本史」展を観てはならないのは言うまて?もない。私たちはと?のような人格とアイテ?ンティティにおいて生きるか、様々なフ?ロタ?クトによるモテ?リンク?を施し、セルフイメーシ?を自らて?テ?サ?インしカスタマイス?しなけれは?ならない。しかし同時にこういった破壊的て?構築的な状況から、あたかも降りたかのように見せかける「ウェルヒ?ーインク?」といった言葉には警戒しなけれは?ならない。たとえこの考え方か?公益性からほと?遠いにしても、自分から逃け?ない正直者や、自らの身体と精神をカスタマイス?して遊ふ?者は、今もと?こかて?良い趣味を楽しんて?いるはす?た?。「異性装」はそういった人々を照らし続ける装いのハ?ラト?クスとして、これからも私たちのハ?トスを揺るか?し続けるた?ろう。
彫刻家/文筆家
1986年生まれ。文化服装学院を卒業後、ベルギーへ渡る。帰国後、コンテンポラリーダンスや現代演劇の衣裳デザインアトリエに勤務。その傍ら彫刻制作を開始。彫刻が持つ複雑な歴史と批評性を現代的な観点から問い直し、物質と時間の関りを探る作品を手がける。2019年から、彫刻とテキストの関係性を扱った「彫刻書記展」や、ファッションとアートを並置させた「the attitude of post-indaustrial garments」など、展覧会のキュレーションも手掛けている。
(企画?編集:古堅明日香)
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